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東京地方裁判所八王子支部 平成8年(ワ)978号 判決

主文

一  原告らの本件請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  原告ら

1  被告は、原告らに対し、各自四三五六万四一九九円及びこれに対する平成六年一〇月八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  被告

1  原告らの請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  (当事者)

(一) 田口稚幸(以下「稚幸」という。)は、平成五年五月七日被告方で被告の診療を受け、即日、左肩甲部腫瘤摘出手術を受け、同六年一〇月八日左肩甲部の悪性腫瘍が全身に転移し、死亡した。

稚幸は、昭和四二年一二月一九日出生し、八王子市立柚木東小学校、同柚木中学校に学び、同六一年堀越学園高等学校を卒業し、同年四月、京王自動車株式会社本社(業務部)に入社し、同五年頃には、同社町田営業所(町田市旭町三丁目三番一六号所在)に勤務し、一般事務を担当していた。

稚幸は体格もよく、堀越学園においては野球部に所属しており、野球のうまいスポーツマンであった。

原告らは、稚幸の両親であり、同人の相続人である。稚幸は死亡当時婚約していたが独身であり、原告らとともに原告らの住所地に居住していた。

(二) 被告は、その長兄(耳鼻咽喉科医)及び弟(歯科医)と共同して東京都東中野五二六番地一号において東中野診療所の名称で診療所(以下「本件診療所」という。)を開設し、医療を行っている。

2  (診療契約の成立)

(一) 稚幸は、平成五年三、四月頃、左肩背部に瘤のようなものができたのに気づき、原告行代に対し、「こんなのができちゃった。」といって、右腫瘤を示した。

稚幸の肩には、平成五年初頭の時点ではなんらの異常もみられなかったが、原告行代が稚幸から右腫瘤を示されたときには、同腫瘤はすでにピンポン玉程度の大きさがあった。

(二) 稚幸は、平成五年五月七日、原告らに対し、「(腫瘤が)」気になるので診てもらってくる」と述べて、本件診療所に赴き、受診した。

被告らは、以前、原告らの住所地の隣に診療所を構えていたことがあり、転居後の現在の診療所も同じ町内にあるので、原告ら及び稚幸は被告らと近所つき合いがあり、稚幸は幼少の頃から本件診療所で受診していた。

(三) 本件診療所では、内科・外科全般を被告が診察し、稚幸に対しては、「脂肪のかたまり(脂肪腫)だ」と説明し、「背部腫瘍」と診断し、即日、右腫瘤を切除した。

被告の診療時における右腫瘤の大きさは「鶏卵大」であったが、右診察に当たっては、X線検査その他の特別の検査はなにも行われなかった。また、右切除後に摘出した脂肪腫を精査するとか、病理検査に回すなどの措置もとられなかった。

(四) その後、稚幸は本件診療所に七回通院し、切除後の処置を受けているが、同診療所においては稚幸に対し切除部分に入れられたガーゼ状のものをただ取り替えるだけで新たな治療・検査も行われず、術後の指示指導もなんらなされなかった。

稚幸が右通院を終了した時点では、切除部分はやや盛り上がって縫合されていた。

3  (稚幸の死亡)

(1) 平成六年になって、稚幸の身体の同じ場所に腫瘤が再発したが、稚幸は被告から特別の指示・指導を受けていなかったことから、また同じ脂肪のかたまりかと思い、放置していた。

(2) しかし、その後右腫瘤は、八センチメートル×八センチメートル大にまで大きくなったため、稚幸は同六年四月二〇日、日本医科大学付属多摩永山病院(以下「永山病院」という。)の外科で外来患者として受診した。

なお、稚幸は、被告方診療所で再度受診することも考慮したが、前年の同診療所におけるガーゼ状のものの取替え処置が苦痛であったため、受診先を変更したのである。

(3) 永山病院の医師は、稚幸の腫瘤をみて、直ちにMRI、CTスキャン、シンチグラム、血管造影などの諸検査を実施した。その後、同病院の医師は右腫瘤が良性か悪性かの確定診断を下すため、針生検を行い、病理診断の結果、クラスⅤの腫瘍と診断した。

(4) 稚幸は、平成六年五月二一日、腫瘤切除手術のため同病院の整形外科に転科し、同月三〇日入院した。稚幸は、同整形外科において、化学療法の実施を受けた後、同六年六月二七日、広範囲左肩甲部腫瘍切除手術を受けた。

(5) しかし、稚幸は、すでに悪性腫瘍が全身に転移していたため、術後の化学療法や放射線療法の甲斐もなく、平成六年一〇月八日同病院で死亡した。

なお、原告らは、平成六年五月三一日、担当医から悪性の軟部腫瘍である旨の告知を受けていた。

4  (被告の責任原因)

(一) 注意義務違反

(1) 稚幸が罹患した軟部腫瘍は、もしそれが悪性であると、単なる切除術を行ったのでは再発して遠隔転移等の原因となる。したがって、被告は医師として右症状について、腫瘍の性質、すなわち良性であるか悪性であるかを十分検査等をしたうえ、その処置には慎重を期すべきである。

特に腫瘤が急速に増大していたり、その直径が五センチメートル以上に達しているような場合には、悪性を疑うべきであるから、医師としては初診時に腫瘤の発生時期、その後の進行状況について十分問診すべきである。

そしてその問診において、二、三か月前に発生した(急速に増大した)ことが判れば当然に悪性を疑うべきであるし、また問診をまたずとも腫瘤の大きさ(初診時ピンポン玉大)からみて悪性を疑い、良性か悪性かの診断を下すために必要な、単純X線検査、静電画像検査、CTスキャン、MRI、血管造影、シンチグラムなどの諸検査を実施したうえ、慎重な措置を講じるべきであった。

(2) また、被告は、前記症状からみて、術後においても、病理組織検査等を行ってその腫瘍について良性か悪性かの確定検査をすべきであった。そしてその確定検査の結果、悪性であれば放射線照射や広範切除等を行い、術後管理を徹底して腫瘍の他への転移を防止するべきであった。

もし被告において設備上右の諸検査をし、処置をなし得ないときは、右諸検査等の実施が可能な他の医療機関にこれを委託するか又は稚幸を転医させるべきであった。

(3) ところが、被告は、医師としてこれらの義務を怠り、安易に単なる脂肪腫と診断し、即座に腫瘤を通常の切除をしたのみで、その後の諸検査、諸処置をまったく行わなかった。

(4) そのため、被告は、稚幸が早期に適切な治療を受ける機会を失わしめ、右腫瘍を再発させ、これを全身に転移させ、その結果稚幸を死亡するに至らしめた。

(二) 被告の損害賠償責任

(1) 前記(一)の事実から被告に過失ないし診療契約上の義務違反があることは明らかであり、被告の行為は不法行為に該当するから、被告に民法七〇九条に基づき原告らの後記損害を賠償する責任がある。

(2) また、被告は前記注意義務を怠り、稚幸を死に至らしめたのであるから、診療契約上の被告の債務不履行は明白であり、被告はこれに基づき右損害を賠償する責任がある。

5  (損害)

原告らは、稚幸の死亡により次の損害を被った。

(一) 逸失利益 四五四六万一七一九円

稚幸は、死亡時独身で、二六歳であった。

稚幸の逸失利益は左のとおり四五四六万一七一九円である。

(計算式)

413万8527円×(1−0.5)×新ホフマン係数21.970=4546万1719円

(二) 慰藉料

(1) 稚幸の慰藉料 二〇〇〇万円

稚幸は、平成六年五月二〇日から通院を始め、同月三〇日から同年一〇月八日まで入院し、全身に転移した悪性腫瘍と闘ったが、その甲斐もなく死亡するに至った。

稚幸はその当時婚約しており、その婚約者を残して無念の想いで亡くなった。

原告らは、稚幸死亡後、被告が同人の葬式にも参列せず、原告らが被告に対し、被告の過失の存在を指摘した内容証明郵便を送付したにもかかわらず、被告からそれに対する誠実な回答は一切なかった。

稚幸の精神的損害は金銭に換算すれば二〇〇〇万円を下らない。

原告らは各自、稚幸の右精神的損害賠償請求権を二分の一ずつ相続した。

(2) 原告らの慰謝料 各五〇〇万円、合計一〇〇〇万円

原告らは、明朗快活なスポーツマンであった息子稚幸の結婚を楽しみにしていたが、被告の過失によりその夢を打ち砕かれた。その原告らの精神的損害は各五〇〇万円を下らない。

(三) 葬儀費用 一九九万四四一三円

原告らは稚幸の葬儀費用として一九九万四四一三円を支出した。

(四) 医療費 四七万二二六六円

稚幸は、平成六年五月三〇日から同年一〇月八日まで入院したが、この間に治療費、個室ベット代、文書料等で合計四七万二二六六円の医療費を支出した。

原告らは稚幸の右医療費相当の損害賠償請求権を二分の一ずつ相続した。

(五) 弁護士費用 九二〇万円

原告らは、本件訴訟を弁護士に依頼し、同弁護士との間に、着手金一二〇万円、報酬八〇〇万円とする委任契約を締結した。

(六) 以上のとおり、被告は原告らに対し各四三五六万四一九九円の損害賠償義務を負っている。

6  (結論)

よって、原告らは被告の不法行為又は債務不履行に基づき被告に対し損害賠償として、各四三五六万四一九九円及びこれに対する稚幸死亡の日の翌日である平成六年一〇月八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否及び反論

1  請求原因第1項について

(1) 同項(一)の事実中、稚幸が平成五年五月七日被告の診療を受けたこと、同人が昭和四二年一二月一九日出生したこと、原告らが稚幸の両親であることは認め、被告の行った手術が左肩後部の腫瘤摘出術であることは否認し、その余は不知。

被告の行った手術は、摘出術ではなく、単なる皮膚切開術である。また、被告が手術したものは、腫瘤ではなく、単なる膿瘍であった。

(2) 同項(二)の事実中、被告が長兄及び弟と「共同して」本件診療所を開設しているとの点は否認し、その余は認める。

本件診療所の開設者は被告一人であり、被告が長兄及び弟と共同してこれを開設しているのではない。

2  同第2項について

(1) 同項(一)の事実は不知

(2) 同項(二)の事実中、稚幸が本件診療所で受診したこと、本件診療所が以前原告らの住所地の隣にあったこと及び同診療所が現在も、以前の所在地と同じ町内にあることは認め、原告ら及び稚幸と被告は近所つき合いがあることは否認する。

(3) 同項(三)の事実中、内科・外科全般を診察している被告が稚幸を診察したことは認め、その余は否認する。

ア 被告は稚幸に対し、脂肪のかたまりとか、脂肪腫とかはいっていない。被告は、稚幸に対し、術前は、「盛上っているものはぷよぷよして液体だから、多分膿が貯まっていると思われるので、切って出さなくてはいけない。」というふうに説明し、術後は、「皮下に膿が貯まって大きくなっていたので、切開して排膿した。」というふうに説明した。

イ 被告は、膿瘍(背部膿瘍)と診断し、背部腫瘍とは診断していない。本件腫瘤は波動を触れ、固形でなく液状と判断された。被告は切除したのではなく、切開しただけである。

ウ 原告らの主張する「切除後に摘出した脂肪腫」というのは誤っている。脂肪腫ではない。切開した時点で排膿があった。

(4) 同項(四)の事実中、稚幸が術後七回被告方に通院したこと、被告がガーゼを取り替えたことは認め、その余は否認する。

ア 「切除」とあるのは切開が正しい。

イ 術後の被告の指示指導については、「膿が残っているうちに切開創が閉鎖すると、再び膿が増えて膿瘍を形成することになる。そのためにもガーゼを挿入しておく必要がある。創部を水で濡らさないように。」と指示してあった。

ウ 切開部分は平坦であった。

エ 被告は縫合はしていない。切開したあとは、排膿後自然に閉鎖するのを待った。

3  同第3項について

同項の事実中、腫瘤が再発したこと、稚幸が被告から特別の指示指導を受けていなかったこと、前年の本件診療所におけるガーゼの取り替え処置が苦痛であったことは否認し、その余は不知。

(1) 本件診療所での稚幸受診時におけるものは、腫瘤ではなく、膿瘍であった。

(2) 本件診療所では、膿瘍に関する指導をしている。被告は脂肪のかたまりと診断、告知したことはない。

(3) 稚幸から処置時に苦痛の訴えはなかった。小児でも耐え得る程度のものである。

4  同第4項の事実は否認する。

(1) 本件患部は、腫瘍ではなく、膿瘍である。原告らの前提は事実と異なる。

(2) 稚幸の膿瘍の発生には不自然な経過はなく、また、被告は排膿を確認している。表面から観察し、五センチメートル以上の膿瘍は一般的によくある大きさである。

(3) 被告は脂肪腫とは診断していない。膿瘍と診断している。

(4) 被告は腫瘤を切除したのではなく、本件患部の切開をして排膿しただけである。

5  同第5項(原告らの損害の発生)及び第6項の各主張は争う。

第三  証拠関係

本件記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

第一  争いのない事実

次の各事実は当事者間に争いがない。

1  稚幸が平成五年五月七日被告方で被告の診療を受けたこと、その後稚幸は本件診療所に七回通院し、ガーゼの取り替えをされたこと。

2  稚幸が昭和四二年一二月一九日に出生したこと、原告らは稚幸の両親であること。

3  被告が本件診療所を開設し、同所で医療を行っていること、被告が以前に原告らの現住所の隣に診療所を構えていたことがあり、移転後の現在の本件診療所も同じ町内にあること。

4  本件診療所では、被告が内科・外科の患者全般を診察していたこと。

第二  証拠及び弁論の全趣旨により認定した事実

証拠(甲一ないし四、六、八ないし一四、乙一の1ないし4、二ないし八、書類送付嘱託に対する永山病院の送付書類、証人間瀬泰克、同南部百子、同古屋倉子、原告田口行代本人、被告本人)及び弁論の全趣旨によれば、以下の各事実が認められ、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

1  稚幸は昭和四二年一二月一九日原告らの二男として生まれ、高校を卒業した年の同六一年四月、京王自動車株式会社に入社し、本社業務課に勤務した後、平成五年頃から同社町田営業所に勤務し、自動車の配車等の仕事をしていた。

2  被告は、昭和五九年三月帝京大学の医学部を卒業後、同年五月医師国家試験に合格し、医師の資格を取得し、同年六月から日本大学医学部大学院に通学し、いわゆる研修医の臨床実習として病院で患者の診療に当たり、同六一年三月同大学院を中退し、父親が開設、経営していた本件診療所を引継ぎ、同診療所において開業医として患者の診療に当たる傍ら日本大学板橋病院の非常勤の助手、財団法人東京都埋蔵物文化センター及び多摩雪印乳業株式会社の従業員の健康管理をする産業医を務めていた。

被告は、本件診療所において内科、外科、小児科、皮膚科等すべての科を担当していたが、患者の約半数が高血圧症や腰痛症などの老人で、内科的な分野の診療が多く、帝京大学在学中に軟部腫瘍の患者をみたことはあったが、稚幸を診療するまでに本件診療所において脂肪腫以外の軟部腫瘍の患者を直接触れて診療した経験はなかった。

3  稚幸は平成五年三月終わりないし四月初め頃、左肩背部に瘤(こぶ)のようなもの(以下「本件腫瘤」という。)ができたことに気づき、母親である原告行代に対し、最近こんなのができたといって本件腫瘤をみせた。そのとき、本件腫瘤は、鶏卵くらいの大きさで、その色は他の部分の皮膚の色と変わりなかった。原告行代は、本件腫瘤に触ってみたところ、硬い感じがした。稚幸は原告行代に対し、左肩を回しながら痛くはないといった。

4  稚幸は平成五年五月七日、原告らに対し、本件腫瘤が気になるので診てもらってくる旨いって本件診療所に行き、被告の診療を受けた。被告の診療には准看護婦である古屋倉子(以下「古屋」という。)が補助者として立ち会った。古屋は本件腫瘤に触ったが、押してはみなかった。

本件腫瘤はその一部が肩甲骨の上、すなわち肩甲骨の皮膚側にかかり、左肩から一五センチメートルくらい垂直に下がった位置が本件腫瘤の中心部に当たるところに盛り上がるようにできていた。被告は本件腫瘤が熱をもっているかどうかの検査はしなかったが、本件腫瘤を触診した際、本件腫瘤又は稚幸の体が熱いという感じはなかった。

5  被告は本件腫瘤についてメスを用いて手術(以下「本件手術」という。)をした。被告が本件手術をした当時、本件診療所の診察室の隣に処置室があり、その処置室には三台のベットが置かれていた。被告が本件手術をしたとき、右三台のベットのうち、処置室の出入り口から二番目のベットに稚幸が窓側に頭を向けうつ伏せになって左肩を出して寝ており、その隣の三番目のベットに神保正治(以下「神保」という。)が窓側に頭を向け仰向けに寝て、右手に点滴の管を付け点滴を受けていた。神保の点滴器の台は廊下側からみて同人の寝ていたベットの左側に置かれていた。被告は稚幸のベットと神保のベットの間で、稚幸の左脇に立ち、本件手術をした。

本件手術直前の本件腫瘤の色は他の部分の皮膚の色と変わりなかった。

6  稚幸は被告から診療を受け終わった後、原告行代に対し、「お袋、取ってきたよ。脂肪の塊だって。」といった。

7  稚幸は本件手術後、平成五年五月八日から同月二六日までの間に、同月一〇日、一二日、一四日、一七日、一九日及び二六日の合計七回本件診療所に通院し、本件手術部分の消毒、ガーゼの交換等の処置を受けていたが、同月一九日の診療時には手術した傷口部分は閉鎖し、ほぼ治癒に近い状態となり、同月二六日の診療時には傷口の周囲も平坦となり、ガーゼも当てなかった。稚幸は右通院期間中、被告から新たな検査を受けたことも、すでに行った検査結果についての報告、説明を受けることもなかった。

8  稚幸は本件手術後、同手術前にしていた野球やゴルフ等の運動もするなど、同人の生活は永山病院で受診するまでの間は従来と特に変わったところはなかった。

9  稚幸は、平成六年春頃原告行代に対し、またできちゃったといって、本件腫瘤のできた場所と同じ左肩背部に再び瘤ができたことを告げた。そのときの右瘤の大きさは、前年(平成五年)三月ないし四月頃できた瘤と比べてやや大き目であった。

10  稚幸は、平成六年四月二〇日、永山病院に行き、外来患者として外科で受診した。

永山病院の外科では、稚幸の血液検査、超音波検査、針細胞診、ガーゼの培養検査等の検査をした結果、同人の瘤は大きさも大きく、悪性腫瘍の可能性が高く、手術を要するものと判断し、同病院の整形外科(以下、単に「整形外科」という。)に対し、稚幸を外来外科から整形外科へ転科し、同人を同科で診療されたい旨の依頼をし、稚幸は平成六年五月二一日同病院の整形外科に移された。

稚幸は本件腫瘤ができてから永山病院に受診に来るまでの経過について、整形外科の医師間瀬泰克(以下「間瀬医師」という。)から訊ねられ、同医師に対し、約一年前頃から左の背部になにかできものができ、近くの医院で受診して切開をしてもらったが、その後また同じところが腫れてきた、気にはなったが、特に痛みもなく、仕事が忙しいため、そのままにしていた、ところができものが余りにも大きくなってきて、後ろを向くと肩のできものがあたり気になるので永山病院に診てもらいにきた、近くの医院では脂肪の塊のようなものを取ってもらったようだと答えた。

11  稚幸は平成六年五月三〇日永山病院に入院し、さらに整形外科で検査を受けた。右検査の結果、すでに稚幸の肝臓に転移した小さな癌が認められ、クラスⅤの進行癌であることが判明し、整形外科では稚幸の瘤は悪性の軟部腫瘍、すなわち癌と診断し、同六年五月末ないし六月初め頃その旨を原告らに告知したが、稚幸本人には左肩軟部腫瘍とだけ告げた。間瀬医師は、稚幸の生存期間は、手術をしなければ三か月未満と予想し、手術をしても一年間生存するのは難しく、半年未満と予想した。

12  稚幸は、平成六年六月二七日整形外科の医師伊藤博元の執刀により、広範囲腫瘍摘出術という腫瘤の切除手術を受けた。間瀬医師は右手術に助手として立ち会い、これを介助した。稚幸は右手術後一時軽快したが、その後同人の病状は悪化し、癌の全身転移から急性呼吸不全を引き起こして、同年一〇月八日午前四時一九分永山病院において死亡した。

13  原告行代は、稚幸が死亡した頃、義母の田口マサから、古屋が同人に対し、本件瘤の治療に関して、豆腐のカラみたいなものがぼろぼろ出たと話した旨聞いた。

14  古屋は稚幸の死亡後、古屋の周辺にいる人から、稚幸の死因について癌で亡くなったと聞いた。古屋はこれを聞いて、どうして稚幸が癌になったのかと不思議に思った。

15  本件診療所作成名義の稚幸の平成五年五月分の診療報酬明細書(甲六。以下「本件レセプト」という。)の傷病名欄には「背部腫瘍」と記載されている。

第三  本件腫瘤の形状及び性質と本件手術の内容

一  本件腫瘤の形状及び本件手術の内容について

1  被告が行った本件手術は、本件腫瘤を切開した後、固形物たる右腫瘤そのものを切除し又は同腫瘤の内部組織を排出したのか、それとも右腫瘤を切開してその中の膿を排出(膿排)したにすぎないのか、また、そもそも本件腫瘤は、その中に膿を含んだ軟らかい腫れもの(被告のいう「膿瘍」)だったのか、それとも固形物すなわち脂肪等の塊(原告らのいう「腫瘍」)であったのかについて、被告は、本件腫瘤は膿瘍すなわち内部に膿を含んだ軟らかい腫れものないしできものであり、本件腫瘤を切開してその中の膿を排出したにすぎない旨主張し、一方原告らは、本件腫瘤は腫瘍すなわち固形の脂肪の塊であり、被告は本件腫瘤を切開した後、固形物たる腫瘍そのものの切除又はその内部組織を排出する手術を行った旨主張しているので、この点について検討する。

2  前記認定事実から、本件腫瘤は被告の初診時において鶏卵くらいの大きさであり、左肩甲骨上に盛り上がり、隆起していたこと、本件手術後は右盛り上がりがなくなり、平坦になったこと、稚幸は本件手術前、原告行代ら家族に対し特に本件腫瘤の痛みを訴えていなかったとみられること、本件診療所における稚幸の健康保険診療録(甲二、乙一の1。以下「本件カルテ」という。)には、本件腫瘤を触診した結果、いわゆる波動を触れ、ぷよぷよした軟らかいものであった旨の記載及び稚幸が自痛ないし圧痛を訴えていた旨の記載はされていないこと、稚幸は本件手術後、原告行代に対し同手術において脂肪の塊を取った旨述べ、また間瀬医師に対し、近くの医院で脂肪の塊のようなものを取ってもらったようだと述べて、稚幸は本件腫瘤を取り除いてもらったという認識をもっていたとみられること、本件手術により本件腫瘤の内部から滲出された内容物は、その色等からすると膿のみではなく、壊死した左肩甲骨上部の組織と血状のもの及び膿が入り混じった液体状のものであった可能性があること、以上の点を指摘することができる。

3 前記認定事実及び右に指摘した点を総合してみると、本件腫瘤は膿瘍でなく腫瘍であり、被告はこれを腫瘍もしくは膿瘍と判断したものと推認すべきであり、被告の行った本件手術は、膿瘍を切開してその内部の膿を排出したものではなく、腫瘍を切開してその内部の組織を排出したものと推認するのが相当というべきである。

4  被告は、本件カルテの「診療の点数等」欄の平成五年五月七日の項に「背部膿瘍」と記載しているのに、本件レセプトの傷病名欄には「背部腫瘍」と記載されている点について、これは本件診療所の職員である南部百子(以下「南部」という。)がコンピューターで右レセプトの傷病名を入力する際に、右カルテの「背部膿瘍」を「背部腫瘍」と記載されているものと見間違えて入力したことによるものである旨主張し、南部は証人尋問及び陳述書(乙八)において右主張に添う証言及び記述をしており、被告本人も同様に右主張に添う供述をしている。

5  しかし、本件カルテには、「背部膿瘍」と記載されているのか、「背部腫瘍」と記載されているのか外見からは必ずしも判然とせず、「背部腫瘍」と記載されているようにみえないでもなく、また、本件レセプトに「背部腫瘍」と記載された経緯に関する南部の証言は、曖昧で、揺れが大きく、首尾一貫性を欠き、その信憑性には強い疑問があるものといわざるを得ないからたやすく信用することはできない。

そして、本件レセプトが診療報酬の請求先である健康保険組合に提出される前に被告がこれに目を通してみているか否かに関する南部の証言全体からみるに、被告は右レセプトが作成された後、診療報酬の請求先に提出される前にこれを見ているものと推認される。ところが本件レセプトは右「背部腫瘍」の記載が訂正されることなく右健康保険組合に提出されている。このことからも、本件腫瘤は被告のいう膿瘍でなく、腫瘍であって、被告のした本件手術は膿瘍を切開し、そこに溜まっている膿を排出しただけものではなく、腫瘍を切開してその内部組織を排出したものであったと推認される。

6  また、証人古屋は、神保が本件腫瘤から膿が出るところをみていて、うわあ、すごいなといった旨証言する。

しかし、原告代理人の質問に対し、神保がうわあ、すごいなといったことを古屋の証人尋問前には誰にも話したことはなく、本件の法廷で初めて話した旨供述した後、裁判所の質問に対しては、右供述を翻して、切開した後、被告に対し、「すごいですね。」又は、「先生、すごかったですね。」、あるいは「神保さんもすごいっていってましたよ。」と話した旨供述し、古屋が同人の証人尋問前に神保の右発言を被告を含め誰かに話したことがあるかどうかの点に関する供述が変転し、一貫していないこと、古屋は同人が作成したとされる同人の陳述書(乙七)に、神保さんがみていましたと記述せずに、神保さんも一部は見ていたと思いますと述べており(第4項)、これは神保において本件手術が行われているのをみているところを古屋が目にしたのでなく、神保は右手術をみていたものと古屋が推測したと述べているにすぎないと解する余地があること、また、右陳述書には神保の右発言のことはまったく記載されていないことからすると、古屋の右証言はこれをたやすく信用することはできない。

7  被告本人も、本件腫瘤を触診したところ波動を触れたので、内容が固形物でない確信をもち、同腫瘤が膿瘤である確率が高いと診た旨供述する。

しかし、被告の右供述は、前記認定のとおり本件腫瘤は腫瘍であったとみられること及び前記2に指摘した諸点からするとにわかに信用し難い。

8  以上から、被告の前記4の主張は採用することができない。

二  本件腫瘤の性質について

そこで本件腫瘤が悪性腫瘍であったか否かについて判断する。

1  一般に悪性腫瘍はこれを放置しておくと次第に増大して周囲の生体組織に浸潤し(浸潤性増殖)、それを破壊する性質をもつのに対し、良性腫瘍はそのような性質を有せず、生命に影響を与えないものであるが、良性腫瘍の臨床経過からそれが悪性化したと考えられる場合が少数であるが実例としてあるといわれており、腫瘍が良性のものから悪性のものに変わることが皆無といえないこと(なお、悪性といわれる腫瘍の中にもその悪性度は広範囲にわたっており、悪性度が極めて高い悪性腫瘍もあれば悪性度が低いそれもあり、悪性度が非常に低くなれば良性腫瘍との区別が困難になり、いわゆる良性悪性境界領域病変となり、肉腫の中にも悪性度が低く、低悪性のものもあるといわれている。)、被告が排出した本件腫瘤の内部組織の細胞診又は生検等の病理組織検査が行われておらず、したがってその結果も判明していないこと、もし被告の診療時に細胞診等の検査が実施されていたならば、合理的な疑いを入れる余地がないほどの高い確率で悪性腫瘍であるとの検査結果が出たであろうといえるかどうか疑問であり、右検査の結果が良性腫瘍の可能性又は悪性であっても極めて悪性度が低い良性悪性境界領域病変もしくは良性腫瘍か悪性腫瘍かそのいずれとも不明という可能性もあり得ること、稚幸が整形外科において受診した当時本件腫瘍の内部組織は現存せず、これの検査をすることは不可能であったこと、本件腫瘤の初発時期がいつ頃であったのか、また整形外科において切除、摘出した悪性腫瘍が被告が本件手術をした平成五年五月七日以後のどの時点に発生したものか、発生後鶏卵大に成長、増大するまでどのくらいの期間が経過していたのか必ずしも明瞭でないこと等からすると、本件腫瘤は、被告が稚幸を診療した平成五年五月七日ないし同月二六日当時において良性の腫瘍でなく悪性の腫瘍すなわち癌であった疑いないし可能性は否定し切れないが、反対に悪性腫瘍ではなく良性腫瘍であった可能性もまた否定し切れないところであり、本件証拠からは、客観的に本件腫瘤が悪性腫瘍であったかそれとも良性腫瘍であったかを明確に認定することは困難であって、右腫瘤が悪性腫瘍であったことは明白であるとはいえないし、また医学的見地から良性腫瘍との合理的疑いを差し挟む余地のない程度に悪性腫瘍であった蓋然性が高いとまではいえないというべきである。

2  ところで、皮下組織、筋肉、筋膜、腱、滑膜、真皮など各種臓器及び硬組織以外の体組織である軟部組織にできる腫瘍は軟部腫瘍と呼ばれ、軟部腫瘍には良性のものと悪性のものとがあり、悪性の軟部腫瘍には脂肪肉腫、悪性線維性組織球腫(MFH)、横紋筋肉腫、神経肉腫、血管肉腫、滑膜肉腫、平滑筋肉腫などがあり、軟部腫瘍は良性・悪性のいずれの場合も大多数が腫瘤を形成しており(骨盤、大腿、肩甲帯など比較的深部悪性腫瘍の例では腫れ〔腫脹〕として訴えられる傾向がある。)、一般に悪性腫瘍は成長が早く、多くは発症後六か月以内に受診しているといわれ、疼痛はその特徴的な症状ではなく、疼痛を訴えることは少なく、触診所見のうち硬度については、多くの軟部腫瘍は弾性に触れるが、少なくとも鶏卵大以上の大きさの腫瘍は軟らかい場合でも悪性腫瘍であることがあるので常に悪性を疑う必要があるといわれている。

3  しかし、本件腫瘤は、皮下、筋間、筋肉内などのいずれに局在したのかその発生部位がどこか、また軟部悪性腫瘍であったとしたらいかなる種類の腫瘍か(脂肪腫か、肉腫か、皮膚腫か、あるいはその他の軟部組織腫瘍か)については医学的に解明され、明確となっているとはいえないこと、軟部腫瘍のサイズについて軟部腫瘍の中には悪性のものでなくても瘤が鶏卵大の大きさになるものもないではないこと、軟部腫瘍の痛みについてそれが悪性腫瘍である場合、疼痛は特徴的な症状ではなく、少ないといわれているが、その種類や大きさによっては十分な臨床症状の問診をすると疼痛を訴える腫瘍もあること、悪性腫瘍でなく良性病変でも発症後すぐに受診する例は多く、特に一か月以内に急に増大した場合は炎症性の病変又は血腫等の非腫瘍性病変であることが多いこと、被告が視診及び触診したときの本件腫瘤の形状、色、硬度等の患部の症状は、必ずしも悪性腫瘍の特徴的な症状と必ずしも一致ないし類似していない点もみられること等に鑑みると、本件腫瘤が被告の診療当時、軟部悪性腫瘍であったものと認定するには相当の疑問が残るというべきである。

4  証人間瀬医師は、八センチメートルかける八センチメートルのサイズの腫瘤の皮膚に切開の痕があったこと、腫瘤が同一部位にできたこと、一年以内に右のサイズにまで大きくなったことから、本件腫瘤が本件診療所において摘出された後、稚幸が永山病院で受診するまでの間に悪性腫瘍が再発と考えるのが妥当だと思った、医局の他の医師も右と同じ見解であった旨証言する。

しかし、稚幸の死亡診断書(甲三)の「15 今回の発病から初診までの経過」欄に、「平成5.5月頃より左肩甲部の腫瘤に気づき、近医にて摘出をうけるも、その后再発、増大し、……」と記載され、腫瘤が再発した旨記載されているが、悪性腫瘍が再発したとは記載されていないこと、前記3に指摘した諸点から考えてみると、間瀬医師ら整形外科の右見解は、被告の行った本件手術から一年余経過した時点において、それから一年余も遡った本件手術時点で悪性腫瘍であったかどうかを事後的に判断したものであり、推定ないし推論の域を出ないものであって、右推定が高度の蓋然性をもって客観的事実と一致し、相違していないと断定できるかどうかは問題である。

したがって、間瀬医師の右証言から本件腫瘤が被告の診療当時癌であったものと認めることはできない。

第四  被告の注意義務及び過失の有無

一  本件手術前における被告の注意義務及び過失の有無

1  原告は、まず被告の義務として本件腫瘤が悪性の軟部腫瘍であれば単なる切除術をしたのでは再発して遠隔転移等の原因となるから、被告は医師として右腫瘍の性質が良性であるか悪性であるかを十分検査等をしたうえ、その処置には慎重を期すべきであり、特に腫瘤が急速に増大していたり、その直径が五センチメートル以上に達しているような場合には、悪性を疑うべきであり、医師としては初診時に腫瘤の発生時期、その後の進行状況について十分問診すべきである、そしてその問診において、二、三か月前に発生し、急速に増大したことが判れば当然に悪性を疑うべきであるし、また問診をまたずとも腫瘤の大きさ(初診時ピンポン玉大)からみて悪性を疑い、良性か悪性かの診断を下すために必要な諸検査、すなわち単純X線検査、静電画像検査、CTスキャン、MRI、血管造影、シンチグラムなどを実施したうえ、慎重な措置を講じるべきであった旨主張する(原因第4項(一)(1))ので、この点について検討する。

2  医師は医療及び保健指導を行うことにより公衆衛生の向上、増進に寄与し、国民の健康な生活を確保することを任務とし、人の生命、身体を傷病から護り、健康の維持、管理を図るべき職責を負っているのであるから、一般に医師が患者を診断するに当たっては、その病状を的確に把握して発生原因や病名等を解明、判断し、適切な治療処置をするための手がかりないし根拠を得るため、そのときの事態に適応した検査を実施するなど万全な配慮をなすべきであり、ことに癌はこれを放置すれば生命をも失うに至る危険のある重大な疾患なのであるから、医師としては癌か否かの診断に当たっては特に慎重を期すことが要求されているということができる。

3  前記認定のとおり本件腫瘤は被告が稚幸を初めて診療した平成五年五月七日当時において明らかに悪性腫瘍であったとまではいい得ないとしても、右腫瘤は鶏卵大くらいの大きさになっており、その視診、触診、問診による症状から悪性腫瘍の可能性があることも否定できなかったのであるから最悪の場合も考えて一応悪性を疑うのが相当というべきである。

そして被告としては、稚幸を他の医療機関へ転医させないで本件診療所において自らが同人に対する診療をする場合は、自ら本件腫瘤の病理組織検査等の検査を行うか、自ら同検査を行わないときはこれを行い得る施設に依嘱して検査をしてもらって右腫瘤が癌か否かの確認をし、もしくは自らが稚幸の診療をしない場合及びそれをしようとしても自己の経験不足や人的、物的設備などの点からすることが不可能ないし困難な場合は稚幸に他の医療機関への転医を勧め又は同人を転医させて、同人が医療水準に適った診療を受けられるようにするのが適切な処置であったというべきである。

4  ところが、前記認定のとおり被告は本件腫瘤を悪性のものと疑わず、病理組織検査等の検査も稚幸の転医又はその勧奨もしなかったのであるから、被告の右行為には稚幸の病状解明について適切さを欠き、不手際があったものというべきである。

5  しかし、医師の診断上の過失の有無を判断するに当たっては、その診断時点における病状等の具体的な状況全体を基礎とし、その時点における医療水準を基準としてなされるべきであり、後日精密検査、病理解剖等により初めて判明した病名等を前提としてその徴憑の存否を遡及的に探求することによってのみ単純にこれを判定するのは相当とはいえない。

前記判示のとおり、本件手術から約一年余後に整形外科において切除した腫瘍がその精密な検査により悪性腫瘍であったことが判明したことをもとに事後の結果から推し量ってみても、本件腫瘤が被告の診療当時、客観的に悪性腫瘍であったか否かは必ずしも明らかではなく、高度の蓋然性をもって悪性腫瘍であったものとも認定し難く、悪性腫瘍の可能性も良性腫瘍の可能性も否定できず、そのいずれであったと推認することはできないこと、本件診療所は検査設備が整い、医療スタッフが揃って充実している大学医学部付属病院、臨床研修指定病院、国公立の総合病院等の大規模な医療機関でなく、小規模の医療施設であり、被告はこれを経営するいわゆる開業医であったこと、被告は本件診療所において内科的な分野の診療をすることが多く、大学在学中に軟部腫瘍の患者をみたことはあったものの、稚幸を診療するまでに同診療所において脂肪腫以外の軟部腫瘍の患者を直接触れて診療した経験はなかったこと、医療行為の専門性、特殊性という観点から医師には相当範囲を逸脱しない限度で診療上一定の裁量権が認められるものと考えられることなどの点を考慮すると、被告が前記の検査をせず、又は転医措置をとらなかった右不手際は、右当時の一般開業医の臨床医学の実践における水準に照らして医師に対し要求される診療契約上の善良なる管理者の注意義務に違反し、又は不法行為上の過失に該当するとまでは未だいえないと解するのが相当である。

二  本件手術後における被告の注意義務及び過失の有無

1  次に原告は、本件手術後の被告の義務として、被告は、本件腫瘤の症状からみて、術後においても、病理組織検査等を行ってその腫瘍について良性か悪性かの確定検査をすべきであった、そしてその確定検査の結果、悪性であれば放射線照射や広範切除等を行い、術後管理を徹底して腫瘍の他への転移を防止するべきであった。もし被告において設備上右の諸検査をし、処置をなし得ないときは、右諸検査等の実施が可能な他の医療機関に委託するか又は転医させるべきであった旨主張する(請求原因第4項(一)(2))ので、この点について検討する。

2  前示のとおり本件腫瘤は被告が稚幸を初診し、本件手術をした平成五年五月七日当時、明らかに悪性腫瘍であったとまではいえないとしても、その視診、触診、問診等の診察による症状から悪性腫瘍の可能性があることも否定できなかったものというべきであるから、被告は、本件手術後においても最悪の場合を考えてなお悪性を疑い、本件腫瘤の組織の病変を解明し、その結果をもとに予後の症状に適応した治療を実施するため自ら本件腫瘤の病理組織検査等の検査をするか、自ら同検査をしないときにはこれを他の医療施設に依嘱して検査をしてもらい右腫瘤が癌か否かの確認をするのが適切な医療処置であったというべきである。

ところが被告が本件手術後右検査を実施しなかったのは、稚幸の病状解明について適切さを欠いた不手際があったものというべきである。

3  しかし、被告が本件手術後稚幸を診療した期間は平成五年五月八日から同月二六日まで一九日間であったが、この間稚幸が被告に身体の不調を訴えたり、手術後の患部やその周辺組織に特別な異変が生じたりしたことは認められないから、本件手術前における被告の注意義務及び過失の有無に関し前記第一項5に述べたのと同様の理由により、被告の右不手際は、右当時の開業医の一般的医療水準に照らして医師に対し要求される診療契約上の善管注意義務に違反し、又は不法行為上の過失に該当するとまでは未だいえないと解すべきである。

4  なお、原告らは稚幸の死亡による損害の賠償を求めているが、仮に被告の前記不手際が過失と評価されるとしても、もし被告が初診時又はその後の診療中に細胞診等の検査を行っていれば、果たして被告が稚幸を最後に診療した平成五年五月二六日又はこれ以後の近い時期には悪性腫瘍を発見することができ、これに対する適切な治療がなされて確実に稚幸が救命され、原告ら主張の年齢まで生存し得たものといえるかどうか疑問であり、検査不実施という被告の不手際が原因で稚幸が死亡したという高度の蓋然性があるとはいい難いというべきであるから、被告の過失と稚幸の死亡との間に因果関係を認めることは困難である。

第五  結論

以上の次第で、被告に稚幸に対する診断及び治療において、診療契約上の注意義務違反又は不法行為上の過失があったものということはできないから、被告に責任原因が認められず、結局原告らの本訴請求はその余の点につき検討するまでもなく理由がないといわざるを得ない。

よって主文のとおり判決する。

(裁判官 逸見剛)

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